御創建
社伝によれば御創建は、白鳳9年(680年)と伝えられ、この横山は閉伊川の上流から洪水で流されて来た山と言われる。
小沢獅子踊りの由来
和銅年間(708年~715年)、猿丸太夫は勅勘を蒙むりこの地に遠流され、宮守となった。
奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき
という和歌をこの地で詠み、許されて京に帰ることができた。その住まいは「猿丸屋敷」といい、太夫の徳をたたえて獅子踊りがつくられたという。
宮古地名の由来
寛弘3年(1006年)、阿波の鳴門が、突然鳴動し怒涛逆巻く天変地異が起こり、帝は諸国にお布令を出しこれを鎮めようとした。当宮の禰宜も、これを鎮めようと日夜祈祷をしたところ、一首の和歌を得ることができた。禰宜は、早速この和歌を御神歌と感じ、阿波の鳴門に赴いた。
山畠に 作りあらしの えのこ草 阿波の鳴門は 誰かいふらむ
と詠じると、たちまち怒涛はやみ、元の静かな海にもどった。帝は、これを大いに喜び、禰宜を召して八幡宮の様子をお尋ねになった。 禰宜は、これに和歌をもってこたえ、
我が国に 年経し宮の 古ければ 御幣の串の 立つところなし
と神古びた様子を申し上げたところ、帝はその歌に御感あって、「宮の古ければ」の一節をとり、「都(華洛)」と異字同訓の「宮古」という地名を禰宜に賜った。以来、この閉伊の湊町 を「宮古」と言うようになった。
さかさ銀杏
また、この阿波の鳴門からの帰途、手にしていた杖を境内に刺したところ、活生して「さかさ銀杏」の大木となり、御神木となった。境内に金刀比羅社が祀られ、阿波四国の船舶が入港すると、必ず参拝する慣わしであった。
源義経公北行
文治4年(1199年)、源九郎判官義経公、平泉を逃れ当宮に参籠。大般若心経百巻を奉納した。家臣の鈴木三郎重家は、老齢のためこの地に残り「近内」に住み、当宮の宮守となった。この縁により現在でも、例大祭にはこの地区より神幸祭行列の供奉が慣例になっている。
藩主の崇敬
江戸時代には、代々藩主の崇敬を受け、例大祭には代官をして代拝せしめ、当宮の祭儀終了を見とどけてから使者を立てて盛岡城下の祭儀を執行する慣わしであった。
謡曲八幡山
この横山は、中世の城舘であり、閉伊川をはさんだ南北の要害の地であり、また、和歌を詠む絶景の場所でもあった。「宮古八景」の一つと数えられ、短歌や漢詩など文学作品が多く残されている。盛岡の寺子屋では、「八幡山」という謡曲も謡われ、学問技芸の神様として遠く世に知られ、広く信仰を集めている。
御神徳は、阿波鳴門の縁記により(交通安全、旅行安全、厄祓、航海安全、大漁満足、無病息災)などに特に霊験あらたかで、近郷近在はもとより全国各地から篤い信仰を受けている。
御祭神
品牟陀和気命(ほんだわけのみこと 人皇十五代 応神天皇)
豊受姫命(とようけひめのみこと)
天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)